著者は2003年より三橋敏雄研究の季刊個人誌「弦(げん)」を創刊発行しました。9年の歳月をかけてその成果を、『評伝 三橋敏雄ーしたたかなダンディズム』として600ページにあまる大著にまとめました。作品発行の詳細な記録をたどり、敏雄の句のありかたとその人格をみごとに描きだしたものとして高く評価されています。
第4回桂信子賞を受賞しています。
三橋敏雄は15歳で神保町にある東京堂に就職し、文芸活動に関わるようになります。「三橋よ、お前は俳句をやれ」ほとんど命令のように寄宿舎の先輩である渡邊保夫から声がかかりました。
処女作は〈窓越しに四角な空の五月晴〉。
当時、神田附近は新興俳句のメッカでした。水原秋桜子・高屋秋窓・石田波郷・西東三鬼・三谷昭・石橋辰之助・渡辺白泉・西島麦南・・・名だたる作家があつまっていました。
以後、66年結社を持たずに新興俳句を師とし、古典に深く通じ、妥協を許さぬ孤高の精神をもって活動しました。
著者は三橋敏雄の作品と人生に寄り添いながら、彼が希求してやまなかった俳句のあるべき姿を丁寧に描きだしていきます。抑揚の効いた簡潔な文体ですが、核心に迫るところは熱く語られています。
第一章 武蔵の国八王子
第二章 東京堂時代
第三章 戦争
第四章 航海時代
第五章 平河会館時代
第六章 退職後
第七章 小田原時代
以上の章立てになっています。
編年体の構成になっていて、冒頭の年表で米一俵の価格や社会的な事件、俳壇・文壇の動向がわかるようになっています。
三橋敏雄は平成元年6月、蛇笏賞を受賞しています。
以下は「俳句」平成元年7月号に掲載された受賞の言葉です。
有季の世界、無季の世界 三橋敏雄
後載の〈略歴〉の冒頭にも記したように、私の俳句の出自はかつて新興俳句である。その上にも昭和十年の当時、先輩たちが鼓吹してやまなかった、無季俳句の実践から句作の道に入った。だから、いわゆる季を捨てて無季に走ったのではない。初めから無季俳句に自己表現をかけたわけである。そういう私に対して、それより先に「ホトトギス」の万年落選を経て投句をやめていた父は次のように論し、一応の見識を示した。〈俳句をやるなら「ホトトギス」か「雲母」にかぎる、自由律なら「層雲」〉と。新興無季俳句には賛成ではなかったのだ。
始めてはみたが無季俳句は難しかった。やがて、並行して有季俳句の実作を試みるうち、季の詞のもつ喚起力の重要性を知った。すぐれた季の詞は、それ自体が一箇の表現として自立している。ひいてはこれを軽々しく使うことは勿体ないと思うまでになった。
しかし、顧みるまでもなく私は、いまだに無季の世界への魅力をおさえきれずにいる。いわゆる有季定型のみを俳句であると信奉する人たちにとって、私は異端者だろう。にも拘わらず、このたびのことは、どうした風の吹きまわしかと思う。選考に当たられた四先生も悩まれたにちがいない。いまは、前記の私の亡父の言葉にもあった「雲母」の、偉大な前主宰、故飯田蛇笏翁の芳名に冠する本賞を拝受して、感概なしとしない。有難く厚く御礼申しあげる。」
蛇笏賞の選考委員は飯田龍太、金子兜太、藤田湘子、細見綾子の四氏でした。
平成二年7月、毎日新聞に4回にわたる連載「私の俳句作法」を寄稿しています。
第1回「俳句の定義」
第2回「花鳥諷詠詩」
第3回「子規に還れ」
第4回「手探り」
高濱虚子が俳句とは「花鳥諷詠詩」であると観念づけて以来、現在一般に俳句とは有季定型による表現形式であるとされています。しかし三橋敏雄は、これは古来からの俳諧の発句の形式であるとし、正岡子規の「俳句には多くの四季の題目を詠ず。四季の題目無きものを雜と言ふ」(『俳諧大要』)を引き、「これを言い換えれば、いわゆる無季の句と有季の句をあわせて俳句である、と定義したものと理解できる」という見解を示しています。
また、「私は無季俳句の実践により、改めて季の言葉の重要性を認識した。余慶というべきものである」と付言しています。
評伝ですが、すぐれたアンソロジーでもあります。
『証言 昭和の俳句』のエピソードもあります。
最後に著者の経歴をご紹介します。
遠山陽子(とおやまようこ)
1932年、東京生まれ。本名飯名(いいな)陽子。1957年から「馬酔木」に所属して句作を始める。1968年には「鷹」創刊に参加して藤田湘子(しょうし)の指導を受ける。1978年三橋敏雄(みつはしとしお)指導句会「春霜(しゅんそう)」(のち「檣(しょう)」に参加。機関紙「檣」の編集を担当する。1978年に第一句集『弦楽(げんがく)』刊行。1986年刊行の第2句集『黒鍵(こっけん)』では第33回現代俳句協会賞を受賞。句集はほかに『連音』(1995)、『高きに登る』(2005)がある。現在、「雷魚(らいぎょ)」・「面(めん)」・「鏡(かがみ)」同人。