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読書録

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『六千億本の回転する曲がった棒』

『六千億本の回転する曲がった棒』 関悦史 邑書林 2000円
  
邑書林発行『セレクション俳人プラス 新選21』・『セレクション俳人プラス 超新選21』で作品を発表している関悦史が、『六千億本の回転する曲がった棒』という句集を出しました。これからの俳壇で活躍が期待される新人の1人だそうです。

金網に傘刺さりけり秋の暮
逢ひたき人以外とは遭ふ祭かな
椿剪ル未ダ死ナヌ者數ヘツツ
入歯ビニールに包まれ俺の鞄の中
年暮れてわが子のごとく祖母逝かしむ
祖母口を軽くひらきて木箱の中
鏡には映り阿部完市話す
人類に空爆のある雑煮かな
網にかかる蛸とゴルディアスの結び目と
夕凪(ユフナギ)ノ浦(ウラ)ニGodot(ごどー)ノ身(ミ)モ燒(ヤ)ケツツ
胡桃のなか学僧棲みてともに割らる
年越そばふとコロッケも乗りたがる
屋根屋根が土が痛がる春の月
崩るる国の砕けし町の桜かな
足尾・水俣・福島に山滴れる
以上は帯に紹介されている10句ですが、なんと黒田先生の選です。


 この人の句集の中に難解なものもあります。中岡毅雄著『壺中の天地』42頁「反写生主義の末路」のなかに「吟行による直接体験を詠んだ句であれ、想像による間接体験を詠んだ句であれ、創作のプロセスにおいて、外界はなんらかのかたちで、自己の内界に関与せざるを得ない。批評対象となるのは、その素材がどのようなレトリックによって表現されたのかという修辞上の問題なのであって、直接体験か否かという舞台裏の説明でないのは、当たり前のことなのである」とありますが、そういう心構えとレトリックの知識をもって読んでいかないとおばさん読者は弾き飛ばされます。
「豈 49号 2009.NOV.」に掲載されている関悦史の「断章三つ」を読みました。
原稿依頼のテーマは〈21世紀にあたって新しい俳人の担い手たちは何を考え何に向うか〉
断章の三つめに「私は受け身であり、何も「考え」ていない。依頼や〆切が発生するとその都度、どう応えることが周囲への寄与となるかを思い、言葉を組織していくだけである。受け身の態勢は、一寸先が読めず様々な予想外の急変に呼応していかなければならない介護暮らしの間に習い性となったのだった。介護していた祖母の没後、一人になってからは、死の明るみの側から不定形の存在となってこの世=悦楽を観ているような感覚をしばしばもった・・・」
 
テーマに対して、
★何も「考え」ていない・・・という表現、実は考え尽くしてしまったのではと思わされます。
  介護施設を頼らず、祖母の家で助産婦だった祖母の暮らしを最後まで支えた人です。
 
★何に向かうか・・・「どう応えることが周囲への寄与となるかを思い、言葉を組織していくだけである。
  受け身の態勢は、一寸先が読めず様々な予想外の急変に呼応していかなければならない介護暮
  らしの間に習い性となったのだった」と体験で悟った人の言葉です。

★死の明るみの側から・・・結びの言葉はとても深いものです。すぐにわかった、わかったなどと言えるような   柔なものではありません。

 加藤楸邨が石田波郷に請われて石橋辰之助と対談して次のことを言っています。

  「僕は俳句を愛すれば愛するほど絶望しそうな心配がわいてくるんだ。つまりだね。俳句に純粋になろうと すればするほどその純粋性の根拠を衝かなくてはいられないのだ。〈俳句を俳句の価値だけに見てゆく〉と  いう言葉にの中に厭なものを見てしまうのだ。小さい形だから「生活感情」を盛りきれない。だからそれ相当 のところで我慢をするという思想が実にたまらない妥協にみえるのだ。ところが事実今までに逞しい「生活感 情」なんか詠われていたことがない。生活から遊離した上っ面の詠嘆が実に多い。たまに本当の人間らしさ を感じても、時代の悩みからは遠い隠遁的・逃避的な声だったりする」

   加藤楸邨が関悦史の俳句を読んだらどんな批評をするでしょう。
by m4s1o3u6e2n9t1n7y | 2012-04-09 22:58