読書録

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『花のある随筆』


『花のある随筆』  山口青邨   龍星閣  (昭和9年)

本書は昭和9年6月に刊行された第一句集『雑草園』についで、10月に刊行されました。大正11年から昭和9年にかけて、ホトトギス・馬酔木などに発表されたものを再録した随筆です。
秋朱之介の装丁で、天金・皮の背表紙、箱には福田富四郎の十薬の絵があります。

青邨は大正11年、杉並区和田本町に雑草園と称す居を構えますが、それまでに、赤坂・麻布・芝・大久保・堀の内などで暮らしています。「一体、人の生活といふものはその住居に随分影響されるのであって、私がこんなに躍起になって住所のことをいふのも、一つは一人の人間の生活をにじみ出させる上に非常に役立つと思ふからである」と述べています。随筆の一編一編に青邨独特のあたたかい観察眼が発揮され、滋味のあるものになっています。
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# by m4s1o3u6e2n9t1n7y | 2012-07-05 23:19

『海も暮れきる』

『海も暮れきる』  新装版  吉村昭 講談社文庫  581円

まずは裏表紙の解説文です。
「咳をしてもひとり」「いれものがない両手でうける」───自由律の作風で知られる漂白の俳人・尾崎放哉は帝大を卒業して一流会社の要職にあったが、酒に溺れ職を辞し、美しい妻にも別れを告げ流浪の歳月を重ねた。最晩年、小豆島の土を踏んだ放哉が、ついに死を迎えるまでの激しく揺れる八カ月の日々を鮮烈に描く。

昭和23年夏、21歳の吉村昭は死を賭して胸郭成形術の手術を受けました。局部麻酔による過酷なものです。あとがきに「読書が唯一の慰めであったが、活字を読むと疲労が甚しく、書籍はもとより新聞すら読むことが不可能になった」「病床で俳句を読むようになったのは眼に負担をかけぬためであった」と述べています。中でも尾崎放哉の句の孤独な息づかいが、同じ病の心を激しく動かしたのだそうです。

吉村昭に『月夜の記憶』(講談社文芸文庫 1500円)という随筆集がありますが、『海も暮れきる』と合わせ読むと、吉村の死生観と最晩年の尾崎放哉の生きざまがより深く見えてきます。
───放哉の句の中で、一句選べといわれても当惑するが、〈葬列 足早な足に暮色まつはり〉という句が、殊に私は好きだ。この一句に、すぐれた短編小説を読む思いだ───(随筆集「わが愛する歌」より)とこころを寄せています。
尾崎放哉との出会いは、文筆家吉村昭にとって必然のことだったのかもしれません。

文庫版の『尾崎放哉全句集』(ちくま文庫 903円)も出版されています。
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# by m4s1o3u6e2n9t1n7y | 2012-06-05 09:14

『ブリューゲルへの旅』

 ブリューゲルへの旅   中野孝次  文春文庫2004年刊  590円

 裏表紙の解説文に「1966年、ウイーン。41歳の著者は憂鬱をもてあましていた。そして〈雪中の狩人〉に出会う。絵が〈ここがお前の帰って行くべき場所だ〉と語りかけてくる。16世紀フランドル地方の謎の民衆画家、ブリューゲルの不思議な作品群をたどりつつ、若き日の懊悩、模索、西洋文明への憧憬と決別を語り尽くした名著。中野流人生哲学の源」とあります。
 


━「そもそものはじめは紺の絣かな」とうたった詩人がいて、わたしはこの句にひどく感心した。しかし考えてみると、わたしは幼時に紺絣を着たことがないのだから、つまりまさにその経験がないということのためにとくにこれにいかれてしまったような気が、しないでもない。昭和初年、千葉県市川市はすでに東京のベットタウンであり、小学生に着物を着る習慣はなかった。と同時に、この郷愁句が思い浮かべる安定した変らぬ生活の実体というものも、そこにはなかったような気がする。━という書き出しで、この随想集ははじまります。

「そもそものはじめは紺の絣かな」は安東次男の句(『裏山』所収)ですが、「紺絣春月重く出しかな」(飯田龍太『百戸の谿』所収)を思います。中野は「紺絣」を原点回帰の出発点にして、ブリューゲルへの旅に出てゆきます。俳句は「一個の完結したイメージ以上のもの」と言ったのは2004年正岡子規国際俳句賞を受賞したアメリカの詩人ゲーリー・スナイダーですが、この随想録に俳句が息づいています。
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# by m4s1o3u6e2n9t1n7y | 2012-05-21 08:51

『芭蕉全句集』『芭蕉全発句』


 まずは裏表紙の紹介文です。

『芭蕉全句集』  雲英末雄 佐藤勝明  角川ソフィア文庫  1238円

後に「俳聖」と呼ばれ、俳諧をそれまでとは比べものにならない高みへ引き上げた
松尾芭蕉。そのすべての発句を取り上げ、1句1句に出典・訳文・制作年次・語訳・
解説を付した。また、全句を季語別に編集して配列。芭蕉の各題への取り組みや、
「稲雀」「椎の花」などの新たに開発された季語、斬新な無季の発句の姿を浮かび
上がらせる。芭蕉の「不易流行」の基本理念が凝縮された980余句の集大成。
俳句実作にも大いに役立つ一冊。



『芭蕉全発句』  山本健吉       講談社学術文庫   2000円

国文学に通暁し、実作と研究双方のよき理解者たる文芸評論家が、渾身の情熱を
注いで正面から俳聖に挑む。全句の訓詁注釈を通して実景、実感、伝記的事実、
言葉の意味、詩性━━芭蕉の世界に迫り、「軽み」論から「いのち」と「かたち」へ、
日本人の魂に根ざす文学的本質へと読者を誘う。今日の俳句・短歌隆盛の礎と
なった不朽の一冊。(解説 尾形 仂)


この2冊、それぞれ季語別・年代別に編まれています。
『芭蕉全句集』には人物一覧・地名一覧・底本一覧・三句索引が、
『芭蕉全発句』には三句索引・季語索引がついています。

「昨日の我に飽くべし」(『俳諧無門関』)これは芭蕉が好んで口にしていた
言葉だそうです。
300年前の暮らしを思いつつ、980余句を毎晩数句ずつ読んでいったら、
あるいは今の自分を越える手立てが見えてくるかもしれません。
この2冊の他に加藤楸邨が『芭蕉全句』(絶版)を上梓しています。
学者・評論家・俳人の揃い踏みです。研究による地図、浪漫に満ちた地図、
ひたむきな情熱に裏打ちされた地図、
どの地図が今の自分に一番あっているのか考えて、
芭蕉の足跡を辿る旅にでるのによい季節ではないでしょうか。
夏ははじまったばかりです。
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# by m4s1o3u6e2n9t1n7y | 2012-05-07 22:08

『子規、最後の八年』

『子規、最後の八年』  関川夏央著  講談社  2300円 

「短歌研究」の連載を単行本にしたものです。
あとがきに「子規が病床につく明治二十八年から明治三十五年の死までの、八年間に限ったらどうか。子規の表現欲、旧文芸に対する改革欲、〈親分〉欲、〈座〉を主宰することへの演劇的情熱、そして食欲、どれをとっても病臥後のほうがはっきりしているし、またはなはだしいのである。子規の本領はその晩年にある」とあります。

創刊した「ホトトギス」を核にして高浜虚子、河東碧梧桐、また、当時文壇で活躍した森鷗外・夏目漱石・樋口一葉・伊藤左千夫らが綺羅星のごとくに登場する評伝です。
 
著者は2003年に構想をたてはじめ、2007年に「短歌研究」に連載開始、2010年に連載が終了しています。あとがきに「子規の三十五年の命は短い。しかし、そこに盛られた内容は濃密である。子規が文芸を志してくれたから、以後の日本の文芸表現はひとつの方向をあたえられたのだと、その晩年の仕事と日常を跡づけて実感した。子規とともに過ごした私の数年間も、彼のそれに遠くおよばずとも、やはり濃密であった」とあります。
 
時代背景も活写されています。
旧来の日本文化が蔑視され、廃仏毀釈の嵐のなかで仏像などを含めた美術品が二束三文で海外に流出していく最中、それに対抗して国民主義を鼓吹した陸羯南が創刊したのが新聞「日本」です。新聞社の記者となった子規は古色蒼然の象徴として打ち捨てられていた俳諧の分類事業にのり出し、俳諧を俳句文学として新生させようと試みました。蕪村のテキストを蒐集したのも子規です。散逸してしまったテキストを探すために賞金を出しています。子規が蕪村を発掘しなければ、今の教科書に蕪村の俳句が載ることもなかったでしょう。

明治29年、ベースボールのコラムを書いています。
「ベースボールには只一個の球(ボール)あるのみ。而して球は常に防者の手にあり。此球この此遊戯の中心となる者にして、球の行く処、即ち遊戯の中心なり。球は常に動く。故に遊戯の中心も常に動く。されば防者九人の目は、瞬も球を離るるを許さず。打者走者も球を見るべからず。傍観者も亦、球に注目せざれば終に其要領を得ざるべし。現代の新聞コラムは、みな子規の文章から出発していると丸谷才一氏は看破したが、なるほどと思う。」(本文引用)

新聞記者子規はすぐれたエディターになっていきます。それも短期間にです。「ホトトギス」の編集もそうした力の結集といえるでしょう。結社誌のさきがけとして後世に貢献するものになりました。

    本文の目次です。

   序章 ベースボールの歌

   明治ニ十八年
   その1 発病
   その2 漱石と虚子

   明治ニ十九年
    「一葉、何者ぞ」

   明治三十年
    「蛮力」の世界

   明治三十一年
   その1「歌よみに与ふる書」
   その2東京版「ホトトギス」

   明治三十二年
   美しい五月こそ厄月

   明治三十三年
   その1 左千夫と節(たかし)
   その2 来客はたのしいが、うるさい

   明治三十四年
   その1 倫敦消息
   その2 藤の花ぶさ
   その3 律という女

   明治三十五年
   その1 最後の春
   その2 子規、最後の「恋」

  終章「子規山脈」その後

   あとがき
   参考文献

 
 最後に明治33年子規庵を訪問した人、開催されたもののを一部あげます。
 この年、子規は580余首(一日平均1.6首)の短歌を詠んでいます。



 5月20日 万葉集論講会 参加者6名
  同夕  蕪村句集論会 6名の他虚子・碧梧桐・鳴雪
   深夜まで続き、伊藤左千夫ら4名子規庵に宿泊

 5月21日 引き続き歌会

 5月22日 佐藤紅緑と友人、子規の3名で句会。

 6月 3日 岡麓新築披露、園遊会31名参加

 6月 4日 長塚節、岡麓 来訪

 6月10日 子規庵句会 20名参加

 6月11日 岡麓・桃沢茂春 来訪
      その夜陸羯南 来訪

 8月10日 喀血

 8月26日 漱石・寅彦 来訪

 9月 9日 定例句会 参加者19名
  〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉、この日詠まれる。
  句会終了後、文章会(山会)、その後ホトトギスの編集会議。

 9月30日 「山会」第二回 碧梧桐・虚子・鼠骨・四方太・瀾水の5名参加

 10月 4日 内藤鳴雪来訪

 10月 7日 与謝野鉄幹来訪  午後から深夜まで歌会
  「今夜限り歌会を廃す。以後左千夫と麓の居宅にてひと月交替でおこなうべし」と指示

 10月14日 句会
  「今夜限り句会を廃す。以後は虚子と鳴雪でひと月交替でおこなうべし」と指示

 明治33年10月30日発行「ホトトギス」第四巻一号の「消息」欄に来客謝絶、年末の蕪村忌と
 「山会」以外の子規庵での会合を廃し、句作の添削も書簡への返信もやめて静養に専念すると宣言。

 11月 8日(旧暦9月17日)誕生日に虚子、碧梧桐、鼠骨、四方太を招く。

 11月23日 闇汁会 根岸短歌会九人を招く
 ※闇汁は2度目、1度目は明治23年10月21日に。いずれも子規の発案である。

 11月30日 暖炉据付祝い  左千夫、麓の2名

子規の痛みはもはやモルヒネでもおさえかねるほどになっていました。一度は来客をすべて断ると宣言しま したが、重篤の身をおして人を招いています。正岡子規という人間の本質があらわれているのではないでし ょうか。現代なら、まちがいなく面会謝絶の状態です。病の子規を支えた妹律と母の献身的な介護、それ   をサポートした高浜虚子ら多くの人々の心情も描かれています。

 
 
明治29年に〈夏嵐机上の白紙飛び尽くす〉という句を詠んでいます。
大野林火が「この句はさっと吹き入ってきた夏の強い風で、机上に重ねてあった白紙がぱらぱらとことごとく 飛び散ったという意。〈夏〉といい、〈白紙〉といい、〈飛び尽くす〉といい、すがすがしい気分を誘う句だ。印象 明瞭、この風の狼藉はよい。」と鑑賞しています。

正岡子規の評伝はほかにもたくさんあります。いろいろ読みくらべてみるのもおもしろそうです。
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# by m4s1o3u6e2n9t1n7y | 2012-04-28 00:21